「ラトビアと日本の橋になる」 アルタさん

ラトビアの首都リガから1時間ほど離れた、バルト三国で最大のリゾート地と言われているバルト海沿岸のJurmala(ユールマラ)の街から日本から一時帰国中だったArta Voicehovskaさん(以下アルタさん)がインタビューに応じてくれました。

アルタさん(画像提供:アルタさん)

日本に関わりをもつようになったわけ
中学生の頃、アルタさんの妹の教母(教会の洗礼式の際に立ち会った女性)の娘さんがアジア好きでアルタさんにJ-POPを聴かせてくれたのです。その音楽を聴いて「今まで聴いたことのない音だ」と、心ときめきました。そして、アルタさんは図書館で日本について調べていくにつれ、次第に音楽から舞妓芸者文化へと興味が注がれていきました。
アルタさんは、進路について考えた時に、高校生まで一生懸命やってきた新体操と興味のある日本についての勉強のどちらに進めば良いのか非常に悩みました。日本の勉強をすることに決め、日本語、日本の文学や歴史、民族、社会についての勉学に幅広く勉強できるのがラトビア大学アジア研究学部だったのです。

新体操に励む(画像提供:アルタさん)

自信のなりたいこと、やりたいことを考え続ける
大学に入学して早々、アルタさんに比べ周りの同級生は日本語を話せるようになっていたため、ラトビア語と日本語はまるで違う言語のため、難しすぎることに驚き、自信をなくしました。しかしアルタさんは、日本について教えてくれる場所があれば、スポンジのようにできる限り吸収する意気込みで授業に参加していました。たまに、学び足りないと感じていたアルタさんは、日本に近づくことができる方法は何かを考えていました。2年時の半年間は、毎週水曜日に大学の講義がなかったのを利用して、ラトビアで一番近い場所……在ラトビア日本大使館の図書館に毎週水曜日に通うことにしました。大使館にはたくさんの日本人が働いていたので、まるで日本にいるかのような雰囲気を感じることができたのです。

3週間の貴重な日本での体験
大学2年生時、大使館からの情報で、日本青年国際交流機構が主催している国際社会青年育成事業(INDEXプログラム)の一環で、毎年バルト三国の国の学生が国ごとに招聘されていました。アルタさんにとってラッキーだったのは、この年はラトビア人学生が招聘される順番でした。そして、ラトビア国内から厳しい審査を勝ち抜いた10人のラトビア人の中の1人にアルタさんも選ばれたのです。成田、香川、高松、東京、沖縄を訪問しながら、日本国内でたくさんの文化的な経験をし、当時の浩宮徳仁皇太子(現:今上天皇)に謁見するという忘れられない想い出を作ることができました。
さらに、日本との距離を縮めるため、アルタさんは家族の協力を得て、日本からの短期留学生のホストファミリーを担当することにしました。アルタさんが大学を離れた今でも家族は日本からの留学生を受け入れ、これまでに約30人もの日本人留学生がアルタさんの家で過ごしました。


1年間の留学生活
大学の卒業論文では着物について調べ、良い成績を収めてラトビア大学大学院に進学し、大学院1年目に1年間の関西日本ラトビア協会の奨学金留学により筑波大学大学院でアジア研究をしました。大学院では「文法」「漢字」「読解」などと、曜日によって内容が変わっていく授業構成のため、言語を各分野をもれなく勉強することができました
エアコンのない慣れないじめっとした日本の夏の宿舎は過ごし辛く、朝から晩まで勉強をして帰宅したらそのまま眠りに落ちることが多かったので、結果的には暑さを勉強でしのいだことになりました。留学中は日本に住んでいるラトビア人のために何か手伝えることがあれば何でもやりたい。そう考えるようになり、日本でもラトビア関係で助けが必要な場合はすぐに飛んで行きました。

筑波大学でのひとコマ(画像提供:アルタさん)

ギリギリまで進路が決まらない
1年間の留学が終わりを迎える頃、アルタさんはなおも「ラトビアと日本の架け橋になりたい」と考えていました。しかし、自分が学んできたことを活かしながら、ラトビアと日本の両国でどんなことができるかを考えている中、日本政府のJETプログラムで国際交流員としての人材を募集しているということを知りました。面接はラトビアで行われるのですが、当初3月上旬の面接だったのを、筑波大学の留学期間があるため3月末に面接をずらしてもらい、ラトビアに帰国して面接試験を受けました。
面接した感触は、あまり良い結果をもたらすものではなく、失敗だと思ったアルタさんは、JETプログラムの国際交流員の面接についてはあまり気にしないようにするために、別のことに集中することにしました。
まず、ラトビア大学大学院のを修了させるため、1ヶ月半は13の大学院の講義を受け、単位を取得し、修士論文を執筆しました。そして、2名の日本人留学生を受け入れながら、時間をやり過ごしていました。

アルタさんの予想に反し、なんと、念願の2019年8月から5年の任期である北海道上川郡東川町の国際交流員を務めることとなりました。北海道の東川町とラトビア北部のルーイエナ州ルーイエナ町は2008年に姉妹都市として提携され、相互に交流を盛んに行なっている関係から、アルタさんのようなラトビアからの国際交流員が、自ら自国の文化などを日本国内で広める重要な役割を担って活動しています。

東川町の魅力をラトビア語で伝える動画(Youtubeより)

2022年に東川町で行いたいこと
あいにくコロナで2年ほど、多くの活動ができないのですが、コロナ前まで毎年行われてきたラトビアのルーイエナからの高校生が東川町に来るという交流事業と、高校生国際交流写真フェスティバルを開催できることをアルタさんは願っています。
そして、昨年(2021年)はラトビア語の語学と文化講座を東川町民向けに開講しましたが、人気の講座だったので今年は語学を中心に秋に開催しようと考えています。
東川町は多くの国との交流をおこなっているので、国際キッチン事業という、世界各国の料理を紹介するイベントもコロナの前までは盛んに行われていました。このイベントでもラトビア料理を紹介したいと思っています。以下はアルタさんが紹介しているラトビアの家庭料理動画です。

Youtubeより

Youtubeより
編み物ワークショップ 講師:鈴木亜依先生
(画像提供:アルタさん)

アルタさんの将来の夢
「母校のラトビア大学で日本語を教えること」「故郷のユールマラの姉妹都市を日本で見つけること」これらは、アルタさんはラトビアと日本の架け橋として生きていく強い原動力となっています。

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